
▲『初音里鴬之記』碑
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表に嘉永元年(1848)、裏に翌2年の銘記がある石碑。総高137.5センチ。その内容は、表に江戸時代末期に流行した鴬の鳴き声の「うまい下手」を競い合わせる「啼<な>き合わせ」(啼合会<ていごうえ>とも)がここ根岸の地でどのように始まったか記し、裏にこの「啼き合わせ」の会に出品された鴬の名前と出品者の一覧が刻まれるものです。
啼き合わせは、室町時代の日記『看聞御記<かんもんぎょき>』にも記されていますが、江戸で始まったのは文化年間(1804〜18)で、まず高田馬場で行われました。次に弘化2年(1845)頃まで向島で盛んに催されました。最後に根岸だったのですが、その年代がはっきりとわかったのは、本碑文の文章によります。それは弘化4年のことで、根岸の里の梅園、現在碑文が建つ地で行われたわけです。明治時代には、「鶯春亭<おうしゅんてい>」という料亭で開かれたことは『風俗画報<ふうぞくがほう>』等で知られていましたが、江戸時代における根岸の鴬の啼き合わせを教えてくれる史料は皆無といってよく本碑文は貴重です。
碑文の文章は、寛永寺子院津梁院<しんりょういん>の僧侶慈広<じこう>が作り、根岸に住んだ書家、関根江山<せきねこうざん>が書を手掛けました。また上部、「初音里鴬之記」の文字は、長崎奉行や勘定奉行を務めた幕臣、戸川安清<とがわやすずみ>が書いたものです。書家関根江山は、別に「詩歌連徘<しいかれんぱい>をもとむるのこと書<がき>」(国立国会図書館蔵)という文を記しており、これは漢詩、和歌、連歌、俳諧募集の広告文で、募集元は根岸の梅園の主です。つまりは梅園で句会や歌会が行われたことを物語り、鴬の啼き合わせに関わったこれらの文化人たちが、「初音里」という場所を新たに名所化しようとしたことがうかがわれます。
以上は、碑の表側についてですが、裏面に記載された内容も興味深いものです。鴬も含めた飼い鳥の史料は文献が少なく、飼い鳥屋を含めた出品者がのべ67名記載されている裏面の内容は(不明な点もまだ多いのですが)、ほかの史料と比較検討して実態がわかれば、飼い鳥屋の歴史の穴を埋めてくれるものとして貴重です。
本碑は、個人の住宅内にあります。見学等詳細のお問合せは、台東区教育委員会にお願い致します。 |