福地源一郎(桜痴)墓(ふくちげんいちろう〈おうち〉はか)

台東区史跡(平成6年度登載)
台東区谷中 谷中霊園


福地源一郎(桜痴)墓 福地源一郎(1841−1906)は、長崎で生まれ、はじめ星泓〈せいおう〉、のち桜痴と号し、源一郎は通称です。明治時代前半、『東京日々新聞』(『毎日新聞』の前身)の主筆として筆をふるい、初めて社説を採用するなど、明治のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍した人物です。
 源一郎は、二長町〈
にちょうまち〉(現、台東一・二丁目)、浅草馬道〈あさくさうまみち〉(現、浅草五・六丁目)、下谷茅町〈したやかやちょう〉(現、池之端一丁目)など区内に居を定め、特に茅町にいた時期は、新聞に主権在君論を載せて、立憲帝政党〈りっけんていせいとう〉を組織するなどの政治面、また、浅草公園の整備に携わるなどの経済面で、手腕を発揮した全盛期に重なります。
 文学面での源一郎は、市川団十郎〈
いちかわだんじゅうろう〉・河竹黙阿弥〈かわたけもくあみ〉らと歌舞伎座を創設し、演劇改良運動などに携わる一方で、『幕府衰亡論〈ばくふすいぼうろん〉』『幕末政治家〈ばくまつせいじか〉』などの歴史書の執筆にも精力的で、これらは現在も高く評価されています。
 墓碑の高さは、約234cm、夫人が共に葬られており、表面に「福地源一郎之墓」、側面に2人の戒名と、没年が刻まれています。

 

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