| 谷中霊園には、田中芳男(1838−1916)の墓があります。東京国立博物館・東京都恩賜上野動物園・国立科学博物館の前身に当たる博物局に勤務し、日本の博物館制度の確立に貢献した人物です。また、明治期開催の5回の内国勧業博覧会(内、3回は上野が会場)など各種博覧会における功績も評価されています。 田中芳男は、天保9年(1838)信濃国飯田(現、長野県飯田市)で生まれ、のち名古屋の伊藤圭介に入門します。ここで芳男は、本草学を学び、後に博覧会や博物館に発展していく「本草会」「薬品会」を経験します。文久元年(1861)、芳男は圭介に伴われ、幕府の洋学研究機関「蕃書調所」の一施設「物産所」勤務のため江戸に移り、慶応3年(1867)には、万国博覧会のためパリに赴き、「ジャルダン・デ・プラント」を見て、ここの植物園に動物園が付随する、総合研究施設としての博物館を理想とするようになりました。 明治3年、芳男は、町田久成がいる物産局(後の博物局)で働きます。この2人は、上野の博物館開館まで、ともに同じ道を歩みました。翌年、招魂社(現、靖国神社)で開かれた物産局主催の「大学南校物産会」は、近代博覧会の最初として画期的な事業でした。 明治6年、町田久成は、内山下町(現、日比谷公園)の博物館を、樹木が多く池水豊かな地である上野に移転・新設の願いを出します。田中芳男は、当初予定になかった動物園 をも上野に移管するよう努めます。移転先は、寛永寺跡地の清水谷になりましたが、動物園を消滅から救った芳男の尽力は多大なものといえましょう。 こうした努力により上野に博物館が開かれますが、初代館長の町田久成、2代館長田中芳男はともに7カ月で辞任します。芳男は、この後、内国勧業博覧会など殖産興業面に貢献しました。特に日本最初の産業博物館、明治24年設立になる伊勢の神宮農業館の創立には力を注ぎました。 芳男は、大正4年男爵の称号を授けられ、翌年6月22日、本郷の自宅で亡くなりました。享年77歳でした。墓碑の高さは2mを超え、正面に「従二位勲一等男爵田中芳男墓」とあり、裏面には、芳男の略歴が刻まれています。 |