金曽木小学校の歴史

☆ 金曽木(かなそぎ)小学校100年の足あとです・・・ ☆
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<歴史>
開校のころ
校舎正面 7Kbyte玄関 12Kbyte
開校(明治36年)当時のままの正面玄関。もちろん木造校舎です。
現在の金曽木公園(当時は無かった)付近で西向きです。
児童は、中央ではなく左右の小さい門から出入りしたそうです。
(右の写真は昭和8年3月卒業アルバムより)
番地は東京市下谷区下根岸町18,19,23,24番地でした。




明治39年の卒業記念撮影
開校当時 20Kbyte
明治39年3月の第3回卒業生の記念撮影です。




明治時代の運動会
明治の運動会 10Kbyte
明治時代の運動会。職員か役人のバスケットボール風の競技でゴールの瞬間です。
ゴールは竹竿の先につけた竹カゴで、玉入れ風。ボールはバスケットボール大です。




昭和8年の体育?
体育 17Kbyte
昭和7年12月に、鉄筋校舎に改築のため上野凌雲院内の仮校舎に移転しました。
仮校庭での体育?です。(昭和8年3月の卒業アルバムより。現文化会館のあたり)




二代目校舎(コンクリート造)
二代目校舎 14Kbyte
昭和9年完成の鉄筋校舎。最新設備を備えた校舎で、見学者が相次ぎました。
周囲が焼け野原となる中で、戦災も免れ、昭和59年まで使用されました。
(撮影は戦後。左は新校舎になって学校前通り側に移った児童正門)




戦前の授業風景
戦前の授業 19Kbyte
昭和11年の教室風景です。左は音楽「仰げば尊し」、右は理科「呼吸作用」
音楽は女子組、理科は男子組の時間です。
本校は多くが3学級で伝統的に1組=男組。2組=女組。3組=男女組でした。




昭和33年東南アジア14カ国学校給食ゼミナール

昭和32年度には都の実験学校として学校給食の研究発表会を開催しました。
それに先だって、全国学校給食研究集会の分科会場にもなりました。
昭和33年度には東南アジア14カ国の代表を招いて、学校給食ゼミナールを
開催しました。写真はその時のようすです。懐かし?の脱脂粉乳と先割れ
スプーン(これも最近はなくなりました)が見られます。




三代目の現在の校舎と根岸の地
現在の校舎 22Kbyte
平成5年の90周年時の校舎の空撮です。多くの民家とビルに囲まれています。
個別化・個性化学習対応のワークスペース付き学年ブロック構成の校舎です。




創立95周年記念行事
創立95周年 24Kbyte
平成10年度は創立95周年でした。喜びの集いや式典をはじめ、
多くの記念行事が行なわれました。




道徳教育研究発表会開催
道徳研究発表会 17Kbyte
平成11年11月2日に区研究協力学校として
道徳教育の研究発表会を開催しました。




道徳教育の実践研究で受賞
第17回道徳と特別活動の教育研究賞・学校(団体)の部
 最優秀賞・文部科学大臣奨励賞を受賞しました

平成13年1月20日に、学校の部の最優秀賞(1校)を受賞しました。
研究テーマ:「自分の考えをもち豊かに心を通わせる子の育成」



創立百周年をむかえました

平成15年11月1日に記念式典が行われたほか、
喜びの集いや様々な記念行事が行われました。
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大正時代の懐古談

 根岸は市内であったが、日暮里は郡部だった。学校の周りには作家の村上波六、
画家の酒井芳一(ほういつ)、絵師の木村武山など、有名人がたくさん住んでいたが、
特に経師屋(きょうじや=「びょうぶ」や「ふすま」などを作る職人)が多かった。
 石稲荷(いしいなり)ののぼり幡は、酒井画伯が描いたものといわれている。
 当時学校では月20銭の月謝をとっていて、毎月、区から集金に来ていた。
また保護者会の時には5銭集め、一年の始めに、筆や墨、紙など、学校で
使用する物を配った。
 授業は今と同じように45分であったが、休み時間は15分とっていた。
 面白い事に、先生たちより小使いさんの方に身分の高い人がいた。
金曽木には旗本の出という、貫禄のある人もいた。
 大正七年に転入、十年六月に京橋区へ転出した。それは、自分の特技を
生かすため、図画の専科を希望したからであった。当時は、裕福な区で
なければ、専科の設置は許されなかったのである。
           (大正7年から10年まで在職の、内藤秀因先生・談)
注(H14)
  内藤先生は水彩画の画家として大成され、故郷の山形県余目町に
  作品を収蔵した美術館があります。

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 現在の広い道はなく、裏側の細い道が通学路だった。学校の周りには高い建物が
なかったので、木造校舎の2階から富士の秀峰を仰ぐことができた。
 日暮里から根岸にかけて、その名のごとく、静かに音もなく音無川(おとなしがわ)が
流れていた。そこではよく魚が釣れた。御行の松(おぎょうのまつ)から三ノ輪まで
往復すると、一尺くらいのナマズや二尺くらいの鯉がバケツいっぱいとれたものだ。
 写真で見ると旧校舎は貧弱だが、設備が良いので越境が多く、日暮里の
商家の子どもや、三ノ輪、竜泉からも大勢来ていた。その頃、どこの学校でも
下駄が盗まれたものだったが、金曽木では盗難がなかったので、ことさら評判が
よかったのだろう。
 小学校から中学校へ進学するのは5人くらいで、その中から大学まで
行った人は2人いたが、ほとんどは商店等の小僧さんになった。
 先生方は教室ではとても厳しかったが、夜、10人くらい自宅に呼んで
勉強をみてくれた。
                    (大正8年卒の多賀憲治さん・談)
注(H14)
 多賀さんは既に鬼籍に入っておいでですが、お孫さんも本校の卒業生です。

         −−(創立70周年記念誌より抜粋)−−
大まかな沿革史
M36 東京市金曽木尋常小学校創立。児童数226名。職員数6名。
    式典当日(5月15日)には楽隊の演奏や軽気球の掲揚等があり、
    地元の期待は大きいものであった。
    『金曽木』の名は、この地の鎌倉時代の旧領主である金曽木氏に由来
    するもので、根拠としては花園天皇の正和元年の鶴ヶ岡八幡宮寄進状に
    『金曽木彦三郎重定』の名が記載され、83年後の應永6年の同宮関係
    文書に『武蔵国豊島郡小具郷内江戸金曽木三郎』の記載がある。
    (小具は現在の荒川区尾久にあたる)
    地名としては『金曽木』から転じた『金杉(かなすぎ)』である。
M37 第1回卒業証書授与式挙行。卒業生 男子17名 女子10名。
M40 高等科の認可がおりる。
M41 人家が増えたため1・2年生を2部学級とする。学級数15。児童数891名。
    義務教育が延長され4年間から6年間となる。
M43 竜泉寺尋常小学校開校により、一部児童が転出し、2部学級は自然解消。
T11 学級数22。児童数1355名。
T12 関東大震災。児童下校後のため人的被害無し。坂本警察署焼失のため
    臨時に本校校舎を使用。避難民数百人を収容。10月1日より授業再開。
T14 屋外運動場をコンクリート舗装する。
S 9 鉄筋コンクリート3階建(一部4階建)新校舎竣工。25mプール建設。
    ガラス張りの回り階段をもつ白亜の校舎はこの界隈では有名だった。
S16 東京府東京市金曽木国民学校と改称。
S18 空襲の危険が迫り、福島県耶麻郡の山都村・熱塩村に集団学童疎開。
S20 東京大空襲(3/10)による罹災者多数を収容。
    同日、学区域の過半は焼失するも、校舎の被害無し。
S22 東京都台東区立金曽木小学校と改称。
S26 東京都実験学校として国語・算数の能力別指導の研究発表会開催。
S28 創立50周年記念式典挙行。現在の校歌を制定。
S32 全国学校給食研究集会の分科会会場校となる。また、都の学校給食
    実験学校としての研究発表会を行う。
S33 国連FAO主催のアジア極東15カ国給食ゼミナールを本校で開催。
S34 学校給食優良校として文部大臣賞受賞。
S60 新校舎(現校舎)竣工。
H 5 創立90周年記念式典挙行。児童数328名。
H10 創立95周年記念式典挙行。学級数11(第1学年は単学級)。児童数296名。
H11 台東区教育委員会研究協力学校として道徳教育研究発表会開催。
    学級数10(第1,2学年は単学級)。児童数270名。
H12 学級数9(第1,2,3学年は単学級)。児童数261名。
    「道徳と特別活動の教育研究賞」の団体の部最優秀賞・
    文部科学大臣奨励賞を受賞。
    研究主題『自分の考えをもち、豊かに心をかよわせる子
    の育成』(道徳教育)
H13 学級数8。(第1,2,3,4学年は単学級)。児童数244名。
    台東区教育委員会準研究協力学校
    東京都連合学芸会に4年生が創作劇「いのちかがやくとき」で参加。
H14 学級数9(第2,3,4学年は単学級)。児童数240名。
    台東区教育委員会準研究協力学校。新教育課程実施。
    9教室冷房化(夜間電力利用の省エネ型冷暖房エアコン)。

H15 創立100周年。記念式典は11月1日(土)に行われました。
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最終更新日 2004年4月5日