明治45年7月、明治天皇が亡くなられました。そして、元号が「明治」から「大正」と改められました。その年、東京市浅草区新谷町2番地にあった旧東京電車株式会社あとに、尋常小学校をつくることにしました。今の生涯学習センターがあるところです。2月9日に工事が始められ七月にはめでたく完成しました。「金龍山浅草寺のそばにある小学校なのだから金龍小学校と名付けよう。」ということで名前が決まったそうです。金竜小学校の誕生です。 9月2日、区内の千束、松葉、芝崎の三つの尋常小学校から児童1617名を集め、25学級の学校として授業を開始しました。そして、同じ年の11月25日に開校式を行いました。 それ以降、この日が金竜小学校の開校記念日となっています。


大正12年9月1日午前11時58分、関東地方は大地震に襲われました。地震の大きさは震度六というはげしいもので、人々は立っていられないほどのゆれを感じたのです。ちょうど昼ご飯の支度で、火を使う時刻でした。家が傾いたり、こわれたりすると同時に、あちらこちらで火事が発生し、みるみるうちに火は広がりました。関東大震災で起きた火事は、3日間も燃え続けました。
そのために、たくさんの家が焼け、多くの人が焼け死んだ のです。ひ害は大きく、当時の浅草の町は、96パーセントが焼け野原になりました。そして、3千人近い人々が命を落とし、たくさんの人々が、ゆくえ知れずになったりしてしまいました。 金竜小学校は悲しいことに、木造校舎の西側から火がついて焼け落ちてしまいました。
このような猛火の中において、浅草寺と伝法院は、奇跡的に焼けおちずに助かったのだそうです。


昭和3年鉄筋コンクリート造り、3階建ての校舎が完成しました。バラック校舎や仮校舎での不自由な勉強が、約6年間続いていたのですから、この校舎の完成を、子どもたちはどんなに待ち望んでいたことでしょう。 当時としては台東区で一番の、東京でもめずらしい立派な校舎でした。その校舎で学べることを、子どもたちはほこりをもって通学したそうです。教室は明るく、冬はスチーム暖房の設備も整っていました。子どもたちはお弁当を乗せて、暖めて食べるのを楽しみにしていたそうです。
そのころ、子どもによい童話を聞かせたいという先生方の願いから、『金龍童話会』が誕生しました。この童話会は昭和18年には130回ほどにもなっていました。先生方の努力で学童疎開の前ぐらいまで続けられました。 また、同じころ、子どもたちの剣道部がつくられ、猛練習を重ねた結果、昭和の初めから、戦争が激しくなる昭和17年ころまで全国に『金龍剣道部』の名声をとどろかせることができました。 このころの金竜小学校は、一つの組には5、60人くらいの子どもがいました。中には70人近くいた組もありました。また、給食はなく、お弁当を学校に持ってきていました。世界恐慌のまっただ中で、そのお弁当のおかずは粗末なものでした。

太平洋戦争は終わりましたが、浅草地区は焼け野原となり、9343名もの尊い命が失われ、家を失い、家族と死に別れた人もたくさんいました。金龍国民学校は、多くの人たちの必死の消火活動により、焼失をまぬがれ、11月12日には53名の児童が集まり、学校が再開されました。22年3月14日、宮城県に集団疎開していた児童も全員無事に帰ってきました。21年4月123名、10月には242名と増え続け、教室、机、椅子が足りなくなり、二部式授業になりました。
21年11月、日本国憲法が公布されました。戦後の教育は憲法の民主主義の精神を取り入れ、戦前の神話や伝説による国の成り立ちや戦争に関わる文章がなくなり、考古学や庶民の歴史なども多く取り入れた教科書になりました。学校も金龍国民学校から金竜小学校と改められました。


金竜小学校に心身障害学級が開設されました。41年4月に「かたばみ学級」という名前が付けられました。「かたばみ」というのは植物の名前で、雨や風、そして少しぐらい踏まれてもびくともしないたくましい草です。障害に負けないで強く元 旧校歌 気に育ってほしいという願いが込められてこの名前が付けられたそうです。かたばみ学級の子どもたちの真剣に取り組む 姿はいつもみんなに感動を与えてくれます。金竜小学校は思いやりの心をもって共に生きていくための交流が続いています。


昭和30年11月25日、創立45周年を記念して校歌が新しく作られました。この歌は浅草や上野、隅田川など学校の周りの様子を明るい調子で歌っています。以来、45年間、金竜小学校の校歌として歌われています。


昭和36年7月10日、金竜公園の敷地に新しいプールができました。それまでのプールは校庭の隅に防火用水として造られたプールでした。普段はプールにふたをして校庭として使っていたものでしたが、新しいプールは自然排水の設備の整ったプールでした。